花も実もある楽しい読書

人生とテニスに役立つ本

人類史の新たな古典:『万物の黎明』の衝撃

人類学者のデヴィッド・グレーバー、考古学者のデヴィッド・ウェングロウの共著。「人類史を根本からくつがえす」という副題通りの書評を、作家のケン・フォレットが寄せている。「本書は、人類の歴史についてこれまで信じてきたことを全て爆破させる爆弾だ」。

私たちが信じてきた人類の歴史。古代は未開で単純な社会だった、農業革命が不平等の起源となった、人類社会はイノベーションにより線形に発展してきた等。

著者たちは最新の研究資料で裏付けしながら、これらの「常識」をくつがえしていく。「シリアス」ではなく「遊戯」が著者たちの大切なテーマでもあるので、訳書の語り口もやさしい。とはいえ壮大な内容を、膨大な証拠とともに、くどいほど丁寧に語るため、理解するのは骨が折れる。それでも、ここから新しい人類史が始まる、と感じさせるエキサイティングな本だ。

先にあげた人類史の常識に対する著者たちの反証と回答を、自分なり噛み砕いてまとめておく。

古代は未開で単純な社会だったか?

最終氷河まっただ中の後期旧石器時代、約3万年前のロシアの遺跡から、豪華なビーズで飾られた衣装をまとう遺体が見つかった。イタリアで見つかった1万6千年前の若い女性は、豊かな装飾品とともに埋葬されたが、その中のひとつは190マイル離れた土地の産出品だ。カラブリアの洞窟に埋められていたのは、とても狩猟採集生活はできそうもないが、死の間際まで健康だったとみられる低身長症の男性だった。

副葬品の製作には膨大な労働力が必要なこと、高度で標準化された製法は専門的な職人がいた可能性を示すこと、外来の高級素材が遠方からもたらされていること、そのような財宝が子供と一緒に埋葬されていたこと、健常者でなくとも生存を可能とするケアの体制があったこと。つまりは、まだ最終氷期のころ、農耕が始まるはるか昔から、人類社会には高度な役割分担や広域にわたる物資移動、地位の相続や社会的弱者へのサポートなど、複雑な社会性があったのである。

農業革命が不平等の起源なのか?

そもそも、ある時期に意図的、革命的に農業が発展したのか。農業が定住を促し、社会の分化と財産の私有を産んだのか。

実験考古学によれば、約1万年前に野生穀物の栽培が始まってから、人間が意図的に選別し続けていたなら、本来は数十年から数百年で顕著な特徴を持つ栽培種が出現するはずのプロセスだった。しかし実際には、三千年もの長い時間を要している。

これだけの時間がかかったのは、人間が農耕と付き合いつつ、他の食料獲得手段や社会構造と組み合わせ、実験的に戯れながらイノベーションを積み重ねていったことを示している。紀元前7,500年から発展したチャタル・ヒュユクは、最盛期に1万人もの人口を抱えた巨大集落であった。遺跡で発見される彫像からは、女性への強い尊敬が見て取れる。また、壁画の主題からは狩猟が大切な行事であったようだ。出土している有機物から栽培穀物が重要な栄養源だったことがわかるが、文化的には農耕が重視されていないのである。

初期の耕作者は、木を切って畑を耕し水を運ぶかわりに、湖や泉のほとりに毎年大水が運んでくる沖積土を、場所を移しながら利用した。氾濫農耕は楽であっただけでなく、定住のインセンティブも働きにくい。かれらが定住を始めたのは、狩猟、採集、漁業、交易などが目的だったのだ。栽培は、コムギだけでなく、藁も生み出す。主に女性が中心となり、藁の繊維を活用した織物、かご細工、建築資材などの工芸が発展していく。

この時期に進展していたのは「具体の科学」であった。氾濫農耕では、沼地に耐久性のある居住地を築く必要があった。そのためには、土壌や粘土の特性を熟知する必要がある。そして粘土は藁と混ぜ合わされて建築資材となったり、小像のような幾何学形トークンとなって芸術や記憶保持の媒体として試されたりしていたであろう。

このように考えると農耕の発展は、食糧獲得手段という経済的移行というよりも、メディア革命のように見えてくる。園芸から建築、数学から熱力学、宗教から男女の役割の再構築まで、あらゆるものを網羅した社会革命でもあった。この素晴らしい新世界で、女性の仕事と知識がその創造の中核を占めていたのは明らかだ。この革命は、大きな暴力もない、かなりのんびりとした過程、遊び心にとんだ、不平等の生じにくい方法で行われたのである。

肥沃な三日月地帯の低地ではこのように革新が進展したが、これらの社会は単独で発展したわけではない。肥沃な三日月地帯の高地にも定住集団が存在していた。かれらもまた、自らに適した栽培や牧畜の戦略を採用していたが、それ以外の点では、低地の隣人たちとは明らかに異なっていた。有名なギョクベリ・テペをはじめとする巨石建造物の建設は最たるものである。その文化は、壮大な石像モニュメント、女性の関心事をほとんど排除した男性的活力によって象徴されている。

このような文化的対立を、偶然や環境要因に帰することもできよう。だが、この2つの文化が近接し、物資の交換を行い、互いの存在を強く意識していたことを考えるならば、相互に意識的に差別化を進めた結果であった、と見るのが妥当である。高地人が捕食的な男性の能力を際立たせる芸術や儀式を執り行うようになればなるほど、低地人は女性のシンボルを中心に芸術や儀式を組織するようになるのである。

農業革命の結果、不可避的に不平等な社会となったのではない。農業を含む様々な社会のあり方を試行錯誤する中で、ひとつの選択肢として、農業と不平等のある社会を選んだのだ。

人類社会はイノベーションにより線形に発展してきたのか?

テクノロジーは社会を形成する上で重要な役割を果たしている。新しい発明は、それまで存在しなかった社会的可能性をもたらすからである。その一方で、新テクノロジーの役割を過大評価してしまうことにも気をつけなければならない。例をあげれば、テオティワカンの人々が都市の建設に石器を使っていたのに対し、モヘンジョダロの人々は金属を使っていた。この大きなテクノロジー的差異は、都市の構造や規模に大きな違いをもたらしてはいない。

大規模なイノベーションが、常に突然、革命的に生じ、その結果、全てを変えてしまうという考え方には証拠がない。新石器時代における革新は、主に女性たちによって何世紀にもわたり、日々の営み、儀礼、遊戯の中で、地味であるものの極めて重要な発見が延々と繰り返されていたのである。これらの発見の多くが、自動織り機や電球と全く同様に、日常生活を大きく変える効果を持っていた。

後に膨大な人口を養う主食となる小麦、コメ、トウモロコシなどの栄養価や成長サイクルに関する知識は、まさに儀礼的な園芸農業によって蓄積されていた。土製品製作は新石器時代よりもずっと以前に、動物などのミニチュア作成のために発明され、その後で調理用や貯蔵用の土器の製作に用いられるようになった。採掘も、まず顔料となる鉱物を確保するために行われた。工芸用の金属を採取するようになったのは、ずっと後のことである。古代ギリシャでは科学者が蒸気機関の原理を考案したが、それを彼らは神の存在の証明などの演劇的目的にのみ用いていた。中国の科学者たちは、不老長寿の薬を求めて数百年も調合を繰り返す中で、火薬を発見した。

このように、歴史のほとんどにおいて、儀礼的遊戯の領域は科学的な実験室であり、社会にとっては、実際に応用できようができまいが、知識や技術の宝庫でもあったのだ。

人類史において、社会の硬直化が起きていたとしたら、人々が異なる形の社会を想像したり実現したりする自由を失い始めた時から始まったのではないか。

人が実践可能な社会的自由とは、1)自分の環境から離れたり移動する自由、2)他人の命令を無視したり従わない自由、3)新しい社会的現実を形成したり異なる社会的現実の間を往来する自由、である。

三つの基本的な自由は徐々に後退してしまって、私たちはそれらがどのようなものであるか、ほとんど理解できないところまで来ている。なぜそうなったのか?

重要な要因の一つと考えられるのは、人間社会が徐々に「文化圏」に分割され、近隣集団が互いの差異を価値あるアイデンティティとして主張するようになった過程で、文化的な決裂の果てに戦争を始めたことだ。

戦争が常に存在していたわけではない。戦争とは、明確に分かれた二つのチーム間で、一方のチームメンバーが他方のメンバー全員を平等に暴力の標的とするゲームだ。こんなやり方が人間に元から備わっているわけではない。成人男性でも、このような組織的殺傷を納得させるには、儀礼や薬物、心理学を組み合わせて使うことが必要とされるものだ。

民族史を眺めてみれば「遊戯戦争」と呼ぶにふさわしい事例には事欠かない。殺傷力のない武器を使用するとか、双方に何千人もの人間を巻き込みながら1日の「戦闘」後の死者が2、3人であるような戦争である。その対極で、最終氷期終了後に中央ヨーロッパの新石器時代の村落間で起こったような、はっきりと大虐殺を示唆する考古学的証拠も多数ある。

戦争でどれだけの自由を奪うか、そして戦争を行うかどうか、人類は試行錯誤を重ねてきた。歴史を振り返ると、戦争は人類社会に常時存在したわけではなく、首尾よく廃絶されたと見える期間も長期にわたるのだが、何世代後にしつこく再生してきた。

もうひとつの、自由を奪う原因とされてきた常識は、集団規模の大きさである。人口の多い社会集団を維持するには、複雑なシステム、階級、命令系統が必要になるとされてきた。大量の人間が一つの場所に住み、共同で物事をなすと決めたら、彼らは必然的に第二の自由、すなわち命令を拒否する自由を放棄しなければならず、代わりに、命令に背くものを罰するシステムを導入しなければならない、というわけだ。

これも、人間心理に基づいていないし、世界中の考古学的証拠との整合性もない。アメリカ先史時代の人々は力を合わせて宮殿ではなく共同住宅を建てていたり、ウクライナ先史時代の巨大集落では個々の世帯が市民合議体を形成したり、ウルク時代のメソポタミアのように、ある種の平等の観念をはっきりと導入している事例もある。

もちろん、君主制や戦士貴族支配が都市環境に根を下ろすということも世界中で起きたが、大規模な定住による必然ではないのだ。メソポタミアの初期都市群の周辺で広く交易を行っていた小規模集団はアナトリア高地で「英雄社会」を形成した。最初の君主制の証拠があるとすれば、それは都市よりむしろ、こちらにあるだろう。都市住民の中には君主制への道を途中まで歩んだものの、引き返した人たちもいる。太陽と月のピラミッドを建設した後、計画を放棄して、住民のための集合住宅を建設したメキシコのテオティワカンが、その事例である。

人間社会とは、将来あるべき姿が決まっていて、そこに向かって線形に発展するものではない。私たちは、全く異なる考えのもとで生活していたこともあり得たのだ。膨大な人間の奴隷化、大虐殺、収容所などが存在しなくても済んだかもしれないと思うと悲しいが、それはまた、今でも人間が介入できる可能性は大きいことを示唆している。

過去を理解するための科学的手段は、めざましく進歩している。忘却されていたが、新たに再発見されたものもある。よく知られていたが、全く新たな解釈を与えられたものもある。これらの新しい知識の目的は、私たちが誰であるか、何になりうるのか、今とは異なるどんな社会を築けるか、想像する自由を取り戻すためであるはずだ。

全ての社会に科学があるように、全ての社会に神話がある。神話は、人間社会が経験に構造と意味を与える大切な方法だ。しかし、ここ数世紀の間に私たちが発展させてきた歴史に関する神話体系は、もはや証拠との整合性は取れないし、それが与える価値は古臭く、破滅的である。

マックス・プランクはかつてこう述べている。「新しい科学的真理は、既存の科学者に、それが間違っていたことを納得させることで古いものにとって変わるのではない。古い理論の支持者がやがて死に絶え、後続の世代が新しい真理や理論を身近で明白なものと感じることで、そうなるのだ」。私たちは楽観主義者である。そうなるのに、さして時間はかからるまい。