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『文字の歴史』長い時間をかけて社会的な必要性から人類が選び抜いた作品

完全な文字とはなにか。次に挙げる3つの基準を満たすものである。

  1. 意思の伝達を目的としている。
  2. 紙など(あるいは PC モニターなど電子機器)の表面に書かれた、人工的な書記記号の集合体である。
  3. 意味を持つ音声、話しことばを系統だてて整理し、それに対応する記号(あるいは意思を伝達するためのコンピュータプログラミング用の記号)を使っている。

文字はどこからともなく生まれたのではないし、神の創造の賜物でもない。紀元前4千年紀半ばに複雑な勘定を処理するのによい方法を探していたウルクのシュメール人が単独で発明したのでもない。

文字体系が自然の過程で自発的に発生し、変化することはない(話しことば意図せずともどんどん変化していく)。文字体系は、人が意図的に、多様な既存の手段の中から、その社会が必要とする目標を達成するために、選び、作りこみ、変化させてきた道具なのである。その最も一般的な目標といえば、人の話した言葉を視覚的に再生することだろう。

文字の起源をたどると、いくつかの欧米の博物館で、研究者が何のためのものか首をひねっていた粘土製品に行きつく。直径2cm 前後の幾何学型の小さな粘土製品と、それが入った直径10 cm ぐらいの中空の粘土製の球である。小さな粘土製品は英語で「しるし」の意味を持つ「トークン」、粘土の球はラテン語で「球」を意味する「ブラ」と呼ばれ、最古のトークンは紀元前8千年紀に属するとされている。

完全な文字は間違いなく、日常の物事を記録する必要性から生まれた。中東では、おそらく何千年もの間、小さな粘土製トークンを、伝票のような勘定道具として使い、物資の数を記録していたのだろう。粘土は、中東では豊富に手に入り、加工も修正もしやすい。保管も極めて簡単で、ただ日に当てて乾かすか、焼けばいい。最も重要なのは、溜まった情報を表す図形的記号が簡単に刻めるということだ。紀元前4千年紀になると、この小さな粘土の勘定道具の使い方が、画期的に変化した。粘土製の球、ブラでトークンを包むようになり、ついで、ブラの外側に記号が刻まれ、ブラを割らなくとも、中にどの商品のトークンがいくつあるかが、わかるようになったのだ。

ブラへの印付けはまもなく標準化され、体系化されるようになった。これにより、記録の保管に新たな記号的関係が生まれた。ブラ球皮の外側に描かれた記号や刻み目は、象徴の象徴となった。例えば、1つのブラの中にある各トークンはヒツジ1頭ずつを表し、そのブラの外側に描かれた模様は、中にあるトークンの形を表す。外側の平面図形による象徴は、内側の立体的なトークンという象徴の代わりになり始めた。これと同時にシュメール人たちは、数の分類を示す異なった形の数え石で数を表す方法をも編み出した。トークンと同じく、数え石はブラの外側に押し付けられて模様となった。今やブラの外側から、中に何のトークンが何個入っているかを「読む」ことができた。ブラに、その中身の種別と数量の両方が「刻印」されるようになったのである。これら外側の二次的象徴が一次的な「記号」として使われるようになり、我々が知る完全な文字が誕生した、とするのがトークン理論である。

事実、トークン・システムは完全な文字の誕生に貢献したと思われる。ただしこれはトークン単独では不可能だった。粘土製のトークンと完全な文字の間をつなぐもの、それが粘土板である。

最古の粘土板は、ユーフラテス川下流のウルクから発掘されたもので、紀元前3300年に遡る。この粘土版は、ブラ・システムから1段階発展しただけのもので、まだ数の数え方と、商品がそれとわかるような、おそらくは標準化、様式化されていたであろう絵文字しかない。

これら初期の粘土板には、少なくとも1500の異なった絵文字(絵にできるモノ)と象徴(数字などの概念)があり、それぞれが1個の具体的な対象を表していた。この方法では、まだまだ抽象的な考えや名前を伝えるのが難しかった。やがて表現力を増すために、ひとつの絵文字で異なったものごとを示す方法が考案された。英語で例えると、Footは「足」と「歩くこと」の両方を、Mouthは「口」と「話すこと」の両方を意味するようになった。さらに、2つの絵文字をくっつけることもでき、「目」と「水」で「泣くこと」を表した。これは非常によく考えられ、体系化されたものではあったが、まだ記憶法の域を出ておらず、完全な文字ではなかった。

より多くのことを伝えたいとか、曖昧さをなくしたいという人々の願いを実現するには、さらに新しい方法が必要だった。その答えは、音と象徴を体系的に統合して、ひとつの文字体系となる記号を創造することだ。その体系内で、ひとつの象徴の音価がその意味価に取って代わったときにはじめて、図形で表される象徴は完全な文字体系の記号となる。日本語で例えると、「え」という音を表すひらがなは服の襟が重なる様子を表す「衣」という漢字からできているが、もはやその意味とは切り離されている。こうして象徴となる記号ともとの対象とのつながりが断ち切られ、この文字体系で話しことばの音のほぼ全てを表現することを追求することとなった。

それを可能にしたのは「判じ絵の原理」だ。判じ絵とは絵で表すなぞなぞであり、この原理は、同音異義語を利用して、話し言葉の中の1音節を1つの絵で表すというものだ。例えば英語で言うなら、単音説の単語「眼(アイ)」が「私(アイ)」を、「道具の「ノコギリ(ソー)」は過去形の動詞「見た(ソー)」となり、普通名詞「嘴(ビル)」は人名の「ビル」となった。こうなれば、絵だけを使って「私はビルを見た」という文を「書く」ことができる。

この過程は、シュメール人時代のメソポタミアでしか確認されていないのであるが、ものごとをよりよく記録するという社会の要求が長い間に積もりに積もり、図形の類も用意され、音価を表す体系も考案された。解決策は、今や3つの基準を満たす新しい文字形式の中にあった。

  1. 意思の伝達を目的としている。
  2. ものの表面に書かれた、人工的な書記記号の集合体である。
  3. 慣習的に、意味を持つ音声の系統的な配列に対応する記号を使っている。

そうして完全な文字ができあがった。

シュメール文字体系の表音文字化は紀元前4千年紀の初期から第三千年紀中期まで、時間をかけて少しずつ進んだ。そして、その考え方はチグリス・ユーフラテスを超えて、東はインダス川、西はナイル川にまで及び、各地域の社会的な要請、すなわち表すべき話しことばの音の違いや、利便性の徹底もしくは曖昧性の排除など、文字に求める期待に答えるべく、違う形に発展していった。

多くの学者はまだ、文字は世界各地に個別の起源を持つもの、文字はひとつの社会レベルが「より進んだ」ことを表すものである、と信じたがっている。しかし、社会が発達すれば自動的に文字が生まれるわけではない。文字は、意図的に作り上げなければならないものであり、その社会が持つ必要性によって決まる長い過程をともなう。多くの証拠から、完全な文字という発想は人類史上一度しか現れなかった、と考えざるを得ない。メソポタミアのシュメール人は、ひととおりの標準化された絵文字と象徴から、その後の人類にとって最も用途の広い道具になるものを編み出した。おそらく他の文字体系と書記法はすべて、6千年前にメソポタミアに誕生した、この唯一無二の原型の派生物であろう。

東アジア最古の表記システムである中国文字は、一見まさに「どこからともなく出現した」かのようで、単独で起こったものだとする学者も多い。紀元前二千年期の後半、中国文字はすでにほぼ完全に発達した形で中国の北部中央地域に現れた。この発展段階の欠落は、文字体系の借用、すなわち原型が外部からもたらされたことを示唆している。中国最古の碑文は、文字を縦に並べ、上から下へ、右から左へ読む。一つの記号が話しことばの一音節を表し、判じ絵の原則を用いている。メソポタミア文字との基本的な類似点がこんなに多くあることは偶然とは考えられない。紀元前2千年紀の中頃にメソポタミア文字の基本原則とその適用法の借用が起こったのだろう。ただし、判じ絵方式によって中国語しか表すことができない中国文字の形状自体は、明らかに他地域から入って来たものではない。外国産の骨格の上に自前の外套をまとっていたということだ。

もうひとつ、独立した文字の発明と多くの学者が言及するのが、メソアメリカの文字である。紀元前7百年頃のメソアメリカ文字のテクストは、象形文字が2つか3つ並んだ簡単なものである。それが紀元前6百年前サポテカ人の石碑から、突然音声の系統的な配列に対応する方式が現れはじめる。これは、完全な文字の概念、つまり意味だけではなく、話しことばを伝えるための文字記号を開発するという飛躍的な発見が、何らかの理由によってその地域で成し遂げられたか、あるいはすでに完全な文字を持つ外部からの来訪者に接触したか、そのどちらかしか考えられない。

ここで浮かんでくるのが紀元前第一千年紀の中国文字である。初期のメソアメリカ文字と初期の中国文字には多くの共通点がある。そっくりな文字がたくさんあり、縦書きで、上から下へ読み、二つ以上の記号を合体させて文字を作る点などだ。

断定するにはまだ証拠が不足しているが、世界中のあらゆる文字の背後にある体系は、一つの原型から派生した可能性が非常に高いということだ。文字とは、それほどまでに途方もない試行錯誤を必要とし、そして社会で必要とされるニーズを満たすために人類が徹底的に選び抜いた作品であったと思うと、実に感動的である。