外資系父ちゃんがすすめる100冊

妻と二人の愛娘と暮らす40代外資系課長です。続く転勤、キャリアの壁、夫婦関係など、不惑を過ぎて惑う日々。教養、ビジネス、夫婦関係、小説、マンガ、心に響く読書を通じて、悩める40代が制約を乗り越えて自由を拡大する。本の中身を実践しつつ紹介します。

1. 人生を後悔することになる人・ならない人 加藤諦三 <人生から逃げない>

 十分に幸せな人生を送っているはずなのに、人生に悩みは尽きない気もする。特に40代に入ってからそう思います。目の前のことを楽しんでがむしゃらに過ぎた10代。自由を謳歌して仕事も楽しんだ20代。結婚して子供も出来て責任ある仕事に挑み始めた30代。40を過ぎるころから、家族、仕事、悩み苦しむことが増えました。妻と価値観がぶつかったり、仕事で自分の限界を突きつけられたり。。

 そんなある時に小さな本屋でこの本に出会いました。パラパラめくると、小見出しに心に引っかかる多くの言葉が。絞り込まれたテーマを、少しずつ言葉をかえて、深く理解できるように読者を導く。繰り返し読むことで浸透してくる本だと思います。

 自分の能力の限界、至らなかった点は多々ありつつ、虚勢、見栄をはってしまう。こうでありたい、他人からこう見られたい、と思っている自分を否定されて、激しく反発したり、落ちこんだり。でも、それは本当の自分ではないし、本当の自分がそうであるならそれを認めて、受け入れると、気分が楽になる。大きく振れなくなる。その安定感と元気をもって、こつこつと新しいこと、やりたいことにチャレンジすることが大事。

  怒りの感情で大声を上げながら「躾のため」「相手が悪い」と合理化する。趣味に大いに時間をかける友人が本当は羨ましいのに「俺はもっと稼いでいるから」と満足なふりをする。本当の自分の心の姿を見つめないで解釈だけで幸せになろうとしても無理。

 「自由がない」と思うのは、自分で選ばずに、他人の評価を気にして、他人のために人生を生きているから。「充実していない」と思うのは、自分に出来ることを存分に行っていないから。自分で選んだことを、それが小さなことかどうか、なんて気にせずに、自分が大事、と思うことを存分にやる。とことん考えて、前に進める。

 成長動機で行動する。欠乏動機で行動しない。そのための、 勇気。「嫌われる勇気」が大ベストセラーになったことが示すように、小さなことでも、いや小さなことから、自分が大切にしていることに向かって、おざなりにせず、時として人とぶつかる苦しみを避けず、うわべの理屈で合理化せず、前に進む、成長する勇気が大事。

 そういう気付きを、心の深いところで気付かせてくれる本です。以下に心に響いた見出しと文章を紹介させていただきます。

 

「幸せにはなりたいが、苦しみは嫌だ」というおかしな考え方

苦しいときに「死にたい」という。その気持ちはウソではない。しかし死ねない。なぜなら人は「生きるよう」にプログラムされているからである。命ある限り生きるように出来ているからである。人は「幸せを求めるよう」に出来ているのであって、「幸せになるよう」に出来ているのではない。私たちが進化によってプログラムされているのは幸せそのものではない。したがって、幸せになるためには並々ならぬ努力がいる。人間に生まれた以上苦しみは避けられない。それが人間の原点である。

心の葛藤に直面せよ

それにふさわしい努力をしないで、それを求める。幸せになる努力はしないけれど、幸せを求める。苦しみを避けて、幸せを求める。この生きる姿勢は、カレン・ホルナイのいう神経症的要求である。幸せは大股で歩くものではない。幸せは、「こんな小さなこと」というようなことの積み重ね。どんな小さなことでも自分でやれば自信がつく。人は大きなことをしたから自信がつくのではない。親の力で裏口から入学しても自信はつかない。ウサギでも魚でも狼でも、自分で餌をとってくるから自信がつく。

今の自分に固執する人は価値観が歪んでいる

人は自分の心の葛藤に直面するよりも、他人を批判している方がはるかに心理的に楽である。あるいは、憂鬱になって落ち込んでいる方がはるかに楽である。「憂鬱になって落ち込んでいる」というのは、攻撃性の間接的表現である。

「本当の感情」を認めることが最も辛い

人生の問題は煎じ詰めれば、現実否認するか「現実の自分」を受け入れて自己実現するかである。「現実の自分」は、今の自分が望んでいる自分ではない。それを認めずに無理に頑張っても能率が下がるだけ。頑張っても何も解決しないのだから。「現実の自分」を受け入れれば、元気になる。もっと意欲的になる。努力する目標が見つかるからだ。

成長しない人は「どうしたら傷つかないですむか」と考えている

人は、心理的にいえば安全第一で、傷つくことを避ける。傷つくことから逃げる。普通の人は安全第一で、成長欲求と退行欲求の葛藤で対抗欲求を選択する。

現実から逃げている人は、「人間がいかに生きるべきか」を見失った人

コロンブスが安全第一であれば、安全に背を向けて西へ向かって船出しない。コロンブスの話をすると、あまりにも私たちの日常生活とかけ離れていて、自分の人生の参考にはならないと思うかもしれない。しかし誰にでもその人の中に「その人自身のコロンブス」はいる。あのコロンブスだって、自らを奮い立たせることなく、何も感じないで日常生活のままで、安全に背を向けて西へ向かって船出したわけではない。自己実現しながら生きる時には、誰もがコロンブスなのである。

心が成長していない人は、自分が「不幸だ」「惨めだ」と思っていたい

人は不幸な感情から抜け出そうとしない。それは不幸にともなう感情に浸っていることが退行欲求を満たすからである。しかし大人になれば退行欲求はなかなか満たされない。その満たされない欲求から怒りが生じ、それが敵意となり、攻撃性となる。人は心理的に成長しない限り、攻撃性は不可避である。「妬みは人を殺す」といわれるがその通りである。攻撃性が受身で表現されれば、それは嫉妬や妬みとなる。英語のpassive aggressiveness という妬みの表現は適切である。苦しみは非難を表現する手段である。苦悩能力のある人だけが、「苦しみは解放と救済に通じる」というアドラーの言葉を理解できるだろう。攻撃性は巧妙に「弱さ」に変装するとアドラーはいう。惨め依存症という言葉があるように、攻撃性は惨めさの誇示に変容する。自分の惨めさを誇示しているときは退行欲求を満たしている。だからなかなか惨めさの誇示は止められない。

人間の成長は、不服従から始まる

 自分の願望を回復するためには、ささいなことであっても、他人の願望に迎合して物事を決断しないことが必要である。成長できない人は、嫌いな相手に「君が嫌いだ」と言うことがなかった。でも、「君が嫌いだ」と言っても、自分の命に関わるわけではないと理解できれば成長できる。それが幸せな人の持っている、良い人間関係である。成長できない人は、「これを自分にくれ」ということが想像できない世界にすんでいた。「これを自分にくれ」ということが許されない世界で成長してきた。そんなことが頭に浮かばない世界で生きてきた。でも、「これを自分にくれ」といっても、拒絶されない世界があることを理解できれば成長できる。単純にいえば、「ありがとう」と素直にいえる人間関係を築く努力をすることである。成長するのを怖れて退行欲求に従う人は、成長することは、今持っているものを失うことだと思っている。しかし成長することは失うことではなく、新しいものを得ることなのである。

「人に見せるための生き方」はおやめなさい

自分の偉大さを人に見せようとしている限り、自分が自分の偉大さに気がつくことはない。人に見せるためではない生き方を始めた時、人は自分の成長に気がつく。人に見せるためではない仕事を始めた時、人は自分の偉大さに気がつく。

「他人からの評価などどうでもいい」と思うだけで楽になる

「自由に自分の人生を生きられない」のは、その人たちが、人から悪く思われること、低く評価されること、拒絶されることなどを怖れているからである。他人の評価を捨てることが出来る。他人の評価を得るための行動がなくなる。さらに具体的な努力を始める。それではじめて「自由に自分の人生を生きられる」可能性が出てくる。「存分に生きよう」と願いながらも、「存分に生きる」にふさわしい努力をしなければ、「存分に生きる」ことはできない。

人生には「欠乏動機」という落とし穴がある

嫌いな仕事だけれども、皆が賞賛してくれる。好きな仕事だけれども、誰もほめてくれない。どちらを選ぶか。前者を選ぶ人が欠乏動機で動いている人である。他人の心を失うことを怖れて行動する。そのような行動は、自分の本章を裏切る行動であり、欠乏動機からの行動である。

 自分の本性を裏切り続けることの恐さ

自己実現にはどうしても自己信頼が必要である。自分の本性を裏切るなどの行動を続けながら、社会的に正常でいることは、病気なのに健康なフリをしながら生きているのと同じことである。人に負けても良い。しかし自分の退行欲求には負けるな!

「典型的な幸せ」を得たはずなのに楽しくない

カレン・ホルナイの著作に次のような女性のことが書かれている。彼女は幸せになれるものを全て持っている。安全も、家も、献身的な夫も、しかし彼女は内的な理由で何ものも楽しめない。「彼女は幸せになれるものを全て持っている」と今書いたが、それは消費社会が「幸せになれるもの」といっているものをすべて持っているということである。成長や苦しみなしに幸せになれる錯覚を与えたのが消費社会、消費文化である。しかし消費文化が与える幸せは幻想でしかない。外側の環境に問題があるから不幸なのか、自分の心に問題があるから不幸なのかを間違える人は多い。それは消費文化に心が支配されている人である。

 心に楽をさせることで失う、大事なもの

なぜ苦しみを避けようとするかというと、それは問題の解決に努力するよりも、問題を欺いている方がはるかに心理的に楽だからである。問題の解決に向かうためには、その人に、自発性、能動性が必要である。しかし問題を欺いているのには、自発性、能動性は必要ない。何よりも欺いていることで退行欲求が満たされる。妬みや嫉妬が原因で、今が不幸だとする。しかし正義を語って相手を非難する。相手を攻撃することで、退行欲求は満たされる。その時その時は心理的に楽であろうが、年をとってからツケが来る。苦しくても妬みや嫉妬をそのまま意識できれば、年をとってから憂鬱に苦しめられることもないだろう。うつ病になることを免れるかもしれない。自分が人を妬んでいるとか、嫉妬しているとかいう事を意識するのは不愉快なことである。偉そうなことをいっていても「自分のしていることは単に憎しみだけだ」と認めることは辛い。自分の今の嫉妬を「思いやり」とか「配慮」とか「愛情」に合理化する方が楽である。しかしその不愉快な気持ちを合理化でごまかすと、その先にはもっと深刻な不快感が待っている。心理的に楽をして生きると夢を失う。マイナスの感情を合理化することの代価は高い。代価は不幸である。合理化とは要するに真実を認めないことである。「自分をごまかすこと」である。フロイド以来、多くの先哲はそう説いてきた。アドラーのいう「苦しみは解放と救済につながる」というのもこのことであろう。要するに多くの先哲は、「合理化するな」といっているのである。 

トラブルが人を成長させるという言葉の意味

トラブルから逃げればその時は楽になる。しかし長い目で見れば辛い人生を選んでいる。逆にトラブルと向き合えばその時は苦しい。しかし「なぜこんなトラブルが起きたのだろう?」と考え、「このトラブルは自分に何を教えているか?」を考える。こうしてトラブルと向き合う。だからトラブルは幸せへの鍵になる。トラブルと向き合ってトラブルを解決していく。それは辛いことであり、骨の折れることであり、消耗することである。もう生きるのは嫌だと思う。そのことには変わりない。しかしあのトラブルは、自分の心のトラブルが表現されたものでしかなかったのだ、そう思えればトラブルは解決に向かう。そうして小さな日々のトラブルと向き合って解決していけば、疲れ果てるけれど、人はそこに生きている意味を感じてくるようになる。生きている意味はいきなり感じられるものではない。日々の小さな努力の積み重ねの上で、人生の意味を感じられるようになる。

自分の意思で何かに挑めば、失敗しても成長につながる

挑戦すれば失敗はある。挑戦するためには、価値喪失の不安と恐怖はある。だけど、生きがいはある。生きている実感はある。しかしここで見逃してはいけないことがある。それはあくまでも「自分の意思」で挑戦するということである。自分の意思で挑戦して失敗して、はじめてそれがアイデンティティーの確立につながる。エリート・コースを突っ走りながら、途中で挫折して自殺したり、うつ病になったりする人がいる。そうなるのは、自分の意思でエリート・コースに挑戦していないからである。親に服従して、認めてもらいたくて親の引いたレールの上を走っている限り、成功も失敗もアイデンティティーの確立にはつながらない。外から見れば、次々に挑戦している。小学校から挑戦の連続である。しかしそれは強制された挑戦である。挑戦というよりも、実は服従である。自らの意思で自我価値の喪失に直面して、それを乗り越えたのではない。それはアイデンティティー確立への道ではなく、自己疎外への道である。

 認めたくない現実を認めるときに、人は成長する

経験を受け入れ、問題が起こるたびに次つぎと征服していくことです。そうすれば、人生はどんどん楽なものになっていきます。逆に、できごとをぼけた忍耐で耐えていけば、トラブルは果てしなく続くでしょう。より良い道は、目的を復活させることにかかっているのです。懸命に努力しながら最後に挫折する人は、目的を間違っていた。社会的に成功すれば、人生の諸問題は解決できると思って頑張る人がいる。しかし、自己栄光化で心の葛藤を解決しようとする人は、ますます弱い人になる。ますます心理的に不安定になる。強さから力を求める人が正常で、弱さから力を求めるのは神経症である。

 幸せな人生を創造するために「苦しみ」がプログラムされている

苦しみはSelf-awarenessである。Self-awarenessの結果、自己執着がなくなれば、今まで辛い努力を必要としたようなことが自然と出来るようになる。人とのコミュニケーションが自然と出来るようになる。

大きなことをするよりも、小さなことを成し遂げること

どんな小さなことでも、自分でやれば自信がつく。人は、大きなことをしたから自信がつくのではない。いつも悩んでいる人は高い山に登ることが自信につながると思っている。だから自信をつけることには辛さが先に来る。本当は、この小さな山を登った時の達成感が、自信の芽となる。登った時に味わった満足感が、自信の芽となる。自信は楽しいことがないとつかない。まず健康、そして動く。一回でも満足する心をもつ。すると次の行動へのエネルギーがうまれる。そして「あれが欲しい、これが欲しい」がなくなる。 

人類の究極の知恵は「逃げるな」ということ

信じる宗教は何でもよい。信じる政治思想は何でもよい。その自分の「信じる考え」に、どういう態度で向き合うかということである。もし現実否認をしない、現実逃避をしないという態度で向き合うならば、違った宗教の人と共存できる。違った思想の人と共存できる。しかしそれに向き合う態度が、非生産的構えであれば、つまり現実否認、現実逃避の人生の態度であるならば、同じ宗教、同じ思想でも、いがみ合うし、殺し合う。もう一度いう、人類究極の知恵は、「逃げるな」である。「現実否認をするな」である。真実から逃げること、そのことが真実をより恐ろしく思わせてしまうのです。私は美人ではないと劣等感を持つ人がいる。私は美人ではないけれど、いいところもあると明るく生きる人もいる。前者は努力をしないで幸せになろうとしている人である。美人でないから私は不幸だといういまの立場に固執する人である。後者は幸せになるために偽りのない努力を惜しまない人である。最後にウェインバーグの言葉を挙げておきたい。

真実から逃げること、そのことが、真実をより恐ろしく思わせてしまうのです。