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試行錯誤の軌跡:人類の歴史を探る(7)2千年前ー包括的政治制度の萌芽と巨大帝国の成立

人類が古代に経験した最重要なできごとの一つは国家の形成だ。国家は当初、都市が政治的に独立して機能する都市国家だったが、古代ギリシアのポリスのように長く機能し続けたケースは少なく、多くの場合、都市国家はより強力な国家に征服されたり統合された。こうしてできあがった領域国家が諸地域に出現したが、強力な軍事力を用いて広い領域や多数の住民を征服、支配する国家が生まれた。これが帝国だ。

帝国は古代世界にいくつもあらわれる。ヒッタイト、アケネメス朝ペルシア、殷、周などだ。しかし、なかでもローマ帝国と秦漢帝国は、広大な支配領域と強大な軍事力に加え、中央集権的な統治機構やそれを支える政治理念、法律などの高度なシステム、さらには洗練された文化をともなっていた。長期にわたる平和と繁栄を実現し、思想的にも後世の大国家のモデルとなるなど、その歴史的意義は極めて大きい。何がこの両帝国の成立を可能にしたのか。

巨大帝国の成立を可能にしたシステム

『国家はなぜ衰退するのか』でアセモグルとロビンソンは、十分に中央集権化された多元的な政治制度を包括的な政治制度、これらがそろわなければ収奪的な政治制度と定義した。そして多元的な党派が権力を分け合い、包括的な政治・経済制度を維持、強化していく社会的な合意や努力がなされない限り、国家は衰退すると論じる。

この定義に基づいてローマと秦漢帝国を評価すると、どちらも現代の基準から見れば「収奪的」ではあったものの、当時の地中海世界、中華世界の競合国と比べると、相対的に「包括的」であった。ただし、それぞれの政治制度の特徴は大きく違う。ローマは多元性に、一方の秦は中央集権化に、特徴がある。それぞれ詳しく見ていこう。

多元的なローマの政治制度

ローマが多元的な政治制度の特徴は、ローマ市民権の拡大と法の支配に見られる。ローマは支配下の多くの民族に市民権を与えて統治機構に参加させ、多様な集団を国家に取り込んだ。ギリシャ都市国家群や他の古代文明に比べ、ローマは外部の人々に市民権を広く提供し、法の下での平等を強調することで、広範な支配を維持することができたのだ。

ローマが完全に包括的であったわけではない。特権階級や奴隷制が支配的であるなど、収奪的な側面も強く残っていた。しかし、同時代の他国と比較すれば、ローマは多元的で包括的な政治制度を持つ国家だった。ローマの元老院や地方の統治体制は、特定のエリート層が権力を握っていたものの、さまざまな民族や地域の有力者が参加する機会があった。

ローマはもともと複数の民族や文化が交わる場所に位置し、ロムルスに始まる建国神話にも、サビーニ人やエトルリア人を取り込んで成長していく過程が語られる。ローマが初期から多民族の取り込みに慣れていた象徴だと言えよう。異なる民族や文化を許容する伝統が、ローマ社会の柔軟さの基盤となった。

紀元前4世紀の当時、他部族や他の都市国家に市民権を付与する行為は、ローマに特徴的な政策だった。

ローマは征服した部族や都市国家に部分的な市民権を与えた。被征服民はローマ法の下に保護され、 投票権などの制限はあったが一定の権利を享受できた。同盟都市には自主的な統治を許しつつ、兵士提供の義務や戦争に協力させる仕組みによって、ローマは軍事力を強化しつつ、支配地域を効率的に管理した。

当時、他の都市国家や部族のやり方と比較すると、ローマの市民権付与政策は非常にユニークだった。ギリシャのポリスは市民権を排他的な特権として管理していたし、ローマの競争相手であったカルタゴも地中海世界に広がる帝国を築いたが、支配住民に政治的、経済的な権利を付与することはなかった。

ローマ帝国はまた、征服地域の有力者を支配側に組み込んだ。領土の西では都市制度を創出して有力者たちに統治させ、支配を安定化させた。統治下に入った属州エリートは、フォルムや公衆浴場などローマ風の生活様式を導入し、修辞学を身につけて「ローマ人」として振る舞い、さらなる社会的上昇を図った。彼らは支配されつつ、支配していたのだ。

ローマ到来以前から都市制度が発展していた帝国の東でも、帝国が都市の有力者を味方につけて支配の共犯としたのは同じだった。人々は単に帝国に従ったのではなく、狡知を働かせて各都市での主体的な生き方を維持すべく試みていた。

ローマ帝国では、支配下に入った者たちもやがて帝国の側に立ち、帝国の完成期には属州出身者が皇帝位に就き、帝国支配者となることもあったのである。

帝国化が生み出したローマ皇帝

ローマはいかに帝国となっていったのか。

紀元前146年、ローマは長年の仇敵カルタゴを滅ぼし、反乱を起こしたマケドニアを支配下におき、挑戦してきたアカイア連邦を撃破しコリントスを破壊した。紀元前133年にはイベリア半島での騒擾を抑え込むことに成功し、ローマは地中海世界を支配し、周辺国家に著しい脅威を与える存在となった。こうしてローマは、皇帝を戴く以前に帝国化した。

広大な帝国の成立は、征服者であるローマ人の状況も変えることになる。共和制国家運営の主軸であった元老院の集団指導体制が立ち行かなくなったのだ。

ローマ共和政は、元老院や民会、執政官などの伝統的な政治制度を基盤としていたが、その制度は都市国家時代のローマに適したもので、地中海全体に広がった帝国の統治には不都合が多かった。

農業を基盤とする市民による重装歩兵はローマ軍の中心だったが、領土拡大にともなう遠方への従軍や長期の戦争で、自分の土地を維持できなくなった。彼らは失業者として都市にあふれ経済的な不満を高めていく。一方、裕福な貴族や騎士階級は没落農民の土地を買い占めて私有農場を拡大し、さらには戦争で大量導入された安価な奴隷労働を農場に導入し、残る自由農民の価格競争力を失わせた。

このように大きな社会問題が進行していたにもかかわらず、保守的で既得権益を持つ貴族階級が支配する元老院は、改革に消極的であった。このような社会的不平等は、ローマ国内での政治的な対立を激化させる。

農民の没落で市民兵制度が崩壊した結果、前107年のガイウス・マリウスの改革以降ローマ軍は志願制となり、貧しい市民が軍隊で生計を立てる形が進んだ。この結果、兵士たちは自分たちを雇用する将軍に強く依存し、軍隊が将軍個人に忠誠を誓うようになる。ここからカエサルやポンペイウスといった強力な将軍が軍事力を背景に権力闘争を繰り広げる土壌が生まれた。

護民官であったティベリウスとガイウスのグラックス兄弟は、土地改革や穀物供給など、社会的不平等を是正する政策を打ち出したが、貴族派の抵抗により暗殺され、平民派と貴族派の対立が激化した。この対立は、その後のローマ内戦の遠因となる。

その内戦を勝ち抜いたカエサルが、ローマの政治的混乱を収束させるべく、前44年に終身独裁官に任命される。拡大した帝国の管理能力の限界、社会的不平等の増大、軍隊の変質、元老院の機能不全といった問題が重なり、強力なリーダーシップが求められる状況にあったのでだ。カエサルはこれらの課題に対応するため、従来の共和政の枠組みを超えた権力集中を実現しようとし、ローマは独裁制へと移行した。

このようにして、多元的な政治制度が特徴であったローマは、皇帝への中央集権化を強めることで改革を進め、さらに200年の成長を実現するのである。

中央集権化された秦の政治制度

一方、秦は中央集権的な統治を強力に推し進めることで勢力を拡大していく。

土地や財産の再分配を通じて貴族層を排除し、強力な王の下に権力を集中させ、 法家思想に基づき全国を郡県制で管理することで、王権の直接行使を目指した。

「戦国の七雄」と呼ばれる大国がしのぎを削る紀元前4世紀、秦は魏の攻勢に対抗すべく、君主の権力強化を進め、官僚・戸籍制度を整備し、より多くの庶民を兵士に徴用する軍事制度を確立する。これらの試みは、実際には徐々におこなわれたが『史記』では一人の人物が一気に断行したかのように記されている。いわゆる「商鞅変法」だ。

商鞅は東方の小国出身で、天下に人材を募る考公の呼びかけに応じて秦にやって来た。紀元前359年の第一次変法では什伍連座の制や、分家強制策の施行など、治安維持や軍費の調達をめざした改革が進められた。商鞅は違反に対して厳罰で臨み、みなを新たな法令に従わせた。

紀元前350年には、県制の整備や耕地区画の改変など、内政の充実を図る第二次変法が行われたことになっている。

古代中国では城郭をめぐらした都市とその周辺をと呼び、秦では異民族を征討して獲得した邑をとし、兵員と軍需物資の供給拠点とした。官僚組織の整備が進むと役人が送り込まれ、県は中央集権的な地方支配の拠点となり、設置地域も辺境地帯に限らなくなる。県を統括するがその上におかれ、支配のあり方もさまざまだった領内の街が、郡県制のもとで均質的・合理的に統治されるようになった。

郡県制の整備で効率的な戦費、兵員の調達が可能となり、以後の秦の軍事的な勝利を生む。秦は東方の諸侯国に侵攻していく過程でも新占領地に郡、県をおき、拡張の足がかりにした。

秦の非常に中央集権的な体制と効率性の高い制度は、同時代の競合国を圧倒する軍事力の獲得を可能にしたが、市民参加や包摂性に欠け、収奪的な部分が多くあった。農民を含む多数の人々が重税や厳罰、広範な強制労働を課され、一般市民にとっては抑圧的な体制だったのだ。

秦帝国の崩壊と漢帝国による継承

秦は紀元前221年に初めて中華を統一するが、関中平原からはるか遠い沿海地域まで領有した結果、課題が山積する。

各郡県の長官は役人で、巨大な官僚機構の一部として、重要事項の決定には上官に報告、認可を得る必要があった。だが中央の指示を悠長に待っていられない事態もある。通信手段の整備されていない当時、宰相の王綰は、遠隔地には「王」をおき、各地の実情にあわせて判断を任せたほうが支配の安定が望めるのではと提案したが、王の自立を恐れた廷尉の李斯による「それでは戦国時代に逆戻りだ」という反論は始皇帝の心をつかみ、公子たちの王への封建は見送られた。

中華統一に実質を与え、偉業をアピールすべく、度量衡、文字、貨幣の統一、五度にわたる始皇帝の全国巡行、さらには対外遠征にも乗り出したが、これが社会に深刻な疲弊をもたらす。北方に長城を築き軍勢を貼りつけ、南方では指揮官をはじめ数十万が戦死し、後方には租税徴収や労役負担がのしかかった。

 「統一に実質を与える」には人手も時間がかかるが、秦にはその時間は残されていなかった。前210年、後継者を曖昧にしたまま始皇帝が崩御し、前209年、長城防衛に徴発された一介の兵士がわずかな手勢で反乱を起こすと、それが全土に波及し、秦はなすすべもなく前206年に崩壊した。

戦乱を勝ち抜いて再び統一をもたらした高祖劉邦は、功臣に推されて漢の皇帝の座に就いた。こうした力関係を反映して、皇帝が当初直轄支配したのは戦国期の秦領のみで、旧六国には功臣が王として封ぜられた。この体制は郡国制と呼ばれる。劉邦は皇帝の座を得てから他界するまでの7年間、諸侯王の粛清に邁進したが、それらの土地を直轄地とはせず、親族を王として封建し支配を委ねた。高祖が問題にしていたのは百戦錬磨の諸将が権力を握り続けていることで、遠隔地支配には、現地に裁量を認めるべきだと考えていたのだろう。

高祖が没すると皇后による専横が起きたが、事態を収集し、文帝を即位させた立役者は皇室成員である各地の王たちだった。その後を継いだ景帝と諸王とのあいだで確執が生まれ、武力衝突に発展する。この反乱が皇帝軍の勝利に終わった結果、全土の直轄化が進められる。

始皇帝のときと同じ諸問題に対処する必要があったわけだが、漢帝国には準備期間が十分にあった。景帝につづく武帝の時代に官吏登用制度が整備され、紀元前134年には毎年地方からエリート候補が推薦される制度が始まる。推薦者は中央から任命された地方長官で、被推薦者はその配下に仕える下級官吏や当地の知識人である。下級官吏は長官が採用した地元の有力者なので、推薦対象の多くは地域の名望家だ。かつての被征服者の子孫はこうして中央政府の高官となり、帝国による支配の一翼を担うことになる。

中央集権化された政治制度をバネに成長し、その限界に突き当たって崩壊した秦帝国だったが、その遺産を継承した漢帝国が、より多元的な政治制度を組み込み、後漢までのさらに200年、中華社会を治めることになる。

両帝国での包括的政治制度のバランス

ローマ帝国と秦・漢帝国の初期の発展を可能にした強みと限界、そこから300年に渡る帝国維持を可能にした軌道修正のプロセスは、アセモグルとロビンソンが『なぜ国家は衰退するのか』で提唱した理論に非常に合致している。

ローマ帝国は、市民権の拡大や法の支配を通じて、さまざまな民族や階層を帝国に取り込む包括的な統治により、広範な領土と多様な社会を支配する基盤を築いた。共和政末期に、貴族層が既得権益に執着し、多くの市民や地方の人々が政治的に排除されて対立や社会不安が高まると、カエサルが独裁制を導入して中央集権化を進めた。同時に、市民権の拡大や地方エリートとの協力を通じて包括的な側面を維持した。ローマ帝国は、多元的な政治制度と中央集権のバランスを取って成長を持続させ、衰退を遅らせた。

秦帝国は、法家思想を基に極端に中央集権的な政治制度を採用し、全権力を皇帝に集中させて中華を統一したが、強権的すぎる体制は広大な領土や多様な社会を安定させられず、15年で崩壊した。その後、漢帝国は秦の中央集権体制を引き継ぎつつも儒教的な理念を取り入れ、地方との関係を再調整した。地方エリート層や貴族層を統治に取り込み、秦帝国よりも安定した長期的な支配を実現した。漢帝国の体制は、中央集権的でありながらも、地方との協調など包括的な側面を取り入れ、多元的な制度に近づいた。

ローマ帝国と秦漢帝国は、逆のアプローチながらも、中央集権化と多元的な制度のバランスを修正して発展し、長期的な成長と安定を実現した。この観点から、ローマと秦・漢帝国の歴史は、アセモグルとロビンソンの論拠を支持する実例と言えるだろう。

 

(6)3千年前ー鉄器の普及と社会の振れ幅の拡大」はこちら。