人生と仕事とテニスに効く読書ノート

人生と仕事とテニスに効く本を、使える形で。

『国家はなぜ衰退するのか』十分に中央集権化され多元的な制度、これらに欠けているからだ

制度は、人々の行動にインセンティブや影響を与え、国家の成功や失敗を左右する。例として、異なる制度を持つ隣国で生まれ育った2人を見てみよう。

ビル・ゲイツは、アメリカ合衆国の学校制度で必要なスキルを身につけ、その経済制度が支える低い参入障壁を活かして起業し、信頼できる政治制度のもと権利を脅かされることなくイノベーションに挑み、成果を自分のものとした。

カルロス・スリムは、メキシコで大変重要となる政治的なコネを活かして国営電信企業を傘下に収めてボロボロなインフラを磨き上げ、特権の維持を可能にする法制度を活かして他者の参入を阻み、莫大な財を築いた。

彼らはともに前途有望な若者で、それぞれの国の制度がもたらすインセンティブに反応して、成功をおさめたのだ。

国によって経済的成功の度合いが異なるのは、制度、すなわち経済を左右するルール、人々を動機づけるインセンティブが異なるためだ。

アセモグルとロビンソンは、本書の第一部で、政治と経済の収奪的制度包括的制度の違いを、第二部では、世界のある地域で包括的制度が生まれ、ほかでは生まれない理由を説明する。

包括的制度と収奪的制度

包括的な経済制度とは、包括的な市場の源であり、職業選択の自由公平な機会を礎とする。包括的制度は、繁栄を呼ぶさらに二つの原動力、テクノロジー教育の発展を促す。おかげで人々の労働力、土地、建物や機械など、資本の生産性が向上する。私有財産を奨励し、契約を護り、均等な機会を生む経済制度は、新テクノロジーをもたらす事業者の参入を促し、 イノベーションを好循環させる。

学校、家庭、職場でのトレーニングによる労働者のスキルアップは、新テクノロジーによる生産性向上を資本家だけの利益にとどめず、労働者を一人投入した際の限界生産力を高め、社会全体の利益につなげる。我々の社会の生産性が昔よりはるかに高いのはテクノロジーのおかげばかりではない。労働者が新しい専門知識を身につけ、新テクノロジーを使ってより大きな価値を生み出すことを可能にする、社会の方向性のおかげでもある。

社会が、経済制度をつくる。政治とは、社会が自らに課すルールを選ぶプロセスだ。政治制度は、政府をどう選び、政府のどの部分が、どんな目的で、何をする権限を持つか、これらを規定する。

権力が一部に集中して制約も受けないなら、その政治制度は絶対主義的だ。北朝鮮や植民地ラテンアメリカの様な絶対主義的な政治制度のもとでは、権力を振るえる人々は、社会を犠牲にして私腹を肥やすために経済制度を制定できる。

対照的に、権力を社会に広く配分し、制約を課す政治制度は多元的である。政治権力は、一人の個人や小さなグループにではなく、幅広い多数のグループに託される。

社会が包括的な経済制度をつくるには、多元的な政治制度だけでは足りない。十分に中央集権化されていることが必要だ。格好の事例がソマリアである。 このソマリ族の国の政治権力はある意味、多元的に配分されてきた。国の全体を支配したり誰かを罰したりする権威は存在しない。社会は対立する派閥に分かれ、互いを制約するのは銃だけだ。マックス・ウェーバーは、国家の定義を「社会における合法的な暴力の独占」とした。これを実現できる程度の中央集権が存在しなければ、国家は法と秩序を強制できないし、公共サービスの提供や経済活動の規制などできるはずもない。

十分に中央集権化されて多元的な政治制度、この条件がそろわなければ、収奪的な政治制度だと言えよう。

持続的な経済成長は、機会の増加と技術発展、教育を受けた人々の増加と技能向上のプロセスだけでは達成できない。ときに従来のやり方を否定する創造的破壊、変化を生んで状況を不安定にするプロセスが、停滞期を突破するためには必要だ。つまり、経済が持続的に成長するには、自らの経済特権の喪失を心配する専横的な権力者によって、成長が阻止されないことが必要なのだ。

1928年から1970年代までのソ連は、きわめて収奪的な政治、経済制度ながら西側諸国を上回る経済成長を達成した。国家権力は自らを脅かす包括的経済制度を決して許さなかったが、きわめて効率の悪い農業から工業へ資源を強制的に移動させ、期間限定の成長を実現したのだ。

現在の中国も急成長を遂げているが、依然として収奪的な制度、国家の支配のもとでの成長で、包括的な政治制度へ移行する兆しはないし、経済制度も十分に包括的とは言えない。

軍政から民主政への移行した韓国の場合、十分に包括的な経済制度、比較的格差が小さく平等な社会、独裁国家である北朝鮮との対峙、同盟国である合衆国の重要性などから、権力者にとって包括的政治制度に向かうことへの抵抗は少なかった。

かつての韓国のように、収奪的な政治制度のもとでも経済制度が包括的ゆえに成長が起こる場合、経済制度が収奪的に変わって成長が止まる危険は常にある。政治権力を握る人々が、経済成長を促すよりも、自分たちの分け前を増やし、他人から盗むほうが利益は多い、と思えば終わりだ。政治制度も含めて包括的な制度に移行しないかぎり、最終的には経済的繁栄の土台そのものが揺らぐことになる。

なぜ地域によって制度が違うのか

西欧、合衆国、日本は、アフリカ、ラテンアメリカ、東南アジアよりも裕福である。それは、地理的、文化的、民族的に運命づけられていたのか。産業革命が18世紀のイギリスで始まり、西欧へ、そして北米へと広まったのは必然だったのか。答えはノーだ。

社会にある既存の制度の相違は、過去の制度の変化の産物だ。制度の変化の道筋が、社会によって違うのはなぜか。答えは制度的浮動にある。孤立した島に暮らす生物群の遺伝子が、遺伝的浮動によるランダムな突然変異のせいでゆっくりと元の種からかけ離れていくように、当初似通っていた二つの社会は、制度的浮動により、やはりゆっくりと、かけ離れていく。

カギを握るのは歴史である。なぜなら制度的浮動を通じて、決定的な岐路で重要な役割を果たすのが、歴史だからだ。

現在のペルーが合衆国よりもずっと貧しいのはペルーの制度のせいで、その制度が成立した歴史のせいだ。地理的、文化的、民族的な違いによるものでは全くない。500年前、現在のペルーに栄えたインカ帝国は、北米に点在した小さな政治体より裕福で、高度な技術を持ち、政治的中央集権化が進んでいた。地域が植民地化されていく決定的な岐路でペルーと北米の行く末を分けたのは、重要だが偶然による、三つの制度的浮動だった。

第一に、15世紀のアメリカ大陸に存在した社会制度の違いが、植民地へのされ方に影響した。北米では、ヴァージニア会社やイングランド王室が地域支配を試みたが、そもそも収奪するだけの現地人の人口も、金銀などの地下資源もなかった。入植したヨーロッパ人を収奪して土地を開墾させようとしたが、人口がまばらな土地にはいくらでも逃げる先があった。包括的経済制度を導入して入植者の生産性を高める以外に、持続可能な植民地経営方法がなかったのだ。

対照的にスペインのコンキスタドールは、ペルーに中央集権化した収奪的国家を発見した。その占領に成功すると、彼らは収奪的国家の社会制度を乗っ取り、豊富な人口を、それまでよりも過酷な形で、具体的には鉱山やプランテーションの労働力として利用し収奪した。

ヨーロッパ人がやってきたときの南北アメリカ大陸に、地理的な決定的要因はなにもなかったし、文化的に劣っていたから収奪的制度に陥った訳でもなかったのだ。

第二に、黒船来航時の日本のように、インカ帝国がスペインに屈しない可能性もあった。1853年7月、ペリーは4隻のアメリカ軍艦を率いて江戸湾に入港し、イングランドがアヘン戦争で中国に行ったように、国際貿易の開始と貿易特権を徳川家に要求した。この決定的な岐路において、日本は異なる対応をした。日本の武家統治も収奪的だったが、徳川家の支配力は弱く、有力藩主は挑戦の機会をうかがっていた。中国では、農民の反乱や内戦はあったが、皇帝の絶対的支配に挑戦しうる社会勢力はいなかった。中国と日本の違いは、西欧との違いと比べれば小さいが、決定的な岐路において極めて重要だった。中国はアヘン戦争の後も絶対主義の道を歩み続けが、日本では、合衆国の脅威が反徳川勢力を結束させ、明治維新という多元的な中央集権国家への道を開いたのだ。

インカ帝国は日本の徳川幕府よりも収奪的で中央集権化しており、明治維新のような政治改革は確かに起こりにくかったが、インカ帝国がスペイン人に完全に屈服する必然性はなかった。もしも抵抗を貫き、脅威に対抗すべく制度の近代化まで達成したならば、世界の歴史も違っていたかもしれない。

第三に、世界を植民地化したのがヨーロッパ人だったことは地理的、文化的に決まっていたわけではない。15世紀の西欧自体、多くの決定的な岐路で偶然に左右されてきた制度的浮動の産物であり不可避なものはない。突出した有力者が不在ゆえに、相互に契約を結ぶ封建制度が発展した。ペストで人口が激減したゆえに農奴が相対的に価値を高め、君主の権力が弱まった。数世紀かけて商業自治を保つ独立都市が発展していた。明の皇帝とは異なり、君主が海外貿易を脅威と受け取らず妨げようとしなかった。もしもこれらが違う展開をしていたら、私たちが住むのは、現在のものとかけ離れた世界、ペルーが合衆国より豊かな世界だったかもしれない。

それでは、包括的な政治・経済制度はいかにして出現するのか。限られた利害関係者同士の闘い、あるエリートによる別のエリートの打倒は、別の収奪的制度を再創造する羽目となる。イギリスの名誉革命が古い絶対主義を新たな絶対主義で置き換えただけでなかったのは、ホイッグ党とトーリー党といった党派はもちろん、ジェントリー、商人、製造業者などの広範な連合による、絶対主義に対抗する革命だったからだ。幅広い連合は、多くの党派が権力を共有してテーブルを囲むため、全員に制約を課す多元的な政治制度の創造が必要となるのだ。法の支配はこうしたプロセスの副産物として現れた。多元主義は法の支配、つまり法は万人に等しく適用されるべきだという原則を神聖なものとして大切にする。収奪的な政治・経済制度に支配される地域と、包括的な政治・経済制度が生まれる地域の差は、多元的な党派が権力を分け合っているか否か、に原因があるのだ。

最後に、そうした制度を長く持続させるのに必要なものはなにか。それは好循環だ。すなわち、包括的制度を傷つけようとする企てからそれを守り、さらには、より大きな包括性をもたらす正のフィードバックである。

19世紀末から20世紀初めにかけて、合衆国では経済エリートによる独占的トラストが台頭した。つまり、市場の存在もそれだけでは包括的制度を保証しない。名誉革命以降のイギリスの制度発展は、包括的制度が少しずつ好循環していくモデルケースだ。 力をつけた大衆の要求の結果、包括的な制度に向かう政治改革が起きた。 10年ごとに1歩ずつ、選挙権の拡大や、より公平な選挙制度の導入など、時に小さな、時に大きな歩幅で、民主主義に向かって進んでいった。 1歩ごとに衝突があったが、経済制度の変化と連動した包括的な好循環から生じた力のために、権力にしがみつくことの見返りが減少した。また好循環によって法の支配が促進され、人々に武力を行使するのはいっそう難しくなった。

多元的な党派が権力を分け合い、包括的な政治・経済制度を維持、強化していく社会的な合意や努力がなされるか、否か。それが、国家はなぜ衰退するのか、成長するのか、の答えである。