人生の折り返し地点。後半戦に幸福に臨むために。人生の悩みは全て対人関係だとするアドラーの教え。それぞれの人生において、もっとも強烈な対人関係の悩みを、どう乗り切るか。
私にとって本書最大の学びどころだった章を抜粋して、肝に命じたい。
権力争いから復讐へ
「では、「いま」の話を聞きましょう。前回、先生は「人は怒りの感情を捏造するとおっしゃいましたね?目的論の立場で考えるとそうなるのだ、と。わたしはいまだにあの言葉が納得できません。たとえば、社会に対する怒り、政治に対する怒りなどの場合はどう説明されます?これもまた、自らの主張を押し通すために捏造された感情だといえますか?」
「たしかに、社会的な問題に憤りを覚えることはあります。しかしそれは、突発的な感情ではなく、論理に基づく憤りでしょう。私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います。私的な怒りは、すぐに冷める。一方の公憤は、長く継続する。私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具にすぎません。」
「私憤と公憤は違うと?」
「まったく違います。公憤は、自身の利害を超えているのですから。」
「じゃあ、私憤について伺います。いくら先生だって、さしたる理由もなく罵倒されたら腹が立つでしょう?」
「立ちません」
「嘘をついちゃいけません!」
「もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ目的を考えるのです。直接的な面罵に限らず、相手の言動によって腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。」
「権力争い?」
「たとえば子どもは、いたずらなどによって大人をからかってみせることがあります。多くの場合、それは自分に注目を集めることを目的にしたもので、大人が本気で怒る直前に引っ込められます。しかし、もしもこちらが本気で怒るまでやめないのだとすれば、その目的は「闘うこと」そのものでしょう。」
「闘って、なにがしたいのです?」
「勝ちたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。」
「よくわからないな。ちょっと具体例を挙げてもらえますか。」
「たとえば、あなたがご友人と、現下の政治情勢について語り合っていたとしましょう。そのうち議論は白熱し、お互い一歩も譲らぬ言い争いのなか、やがて相手が人格攻撃にまで及んでくる。だからお前は馬鹿なのだ、お前のような人間がいるからこの国は変わらないのだ、と。」
「そんなことをいわれたら、こちらだって堪忍袋の尾が切れますよ。」
「この場合、相手の目的はどこにあるのでしょう?純粋に政治を語り合いたいのでしょうか?違います。相手はただあなたを非難し、挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです。ここであなたが怒ってしまえば、相手の思惑通り、関係は権力争いに突入します。いかなる挑発にも載ってはいけません。」
「いやいや、逃げる必要はありません。売られた喧嘩は買えばいい。だって、悪いのは相手なのですからね。そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っ柱をへし折ってやればいいのです。言葉の拳でね!」
「では、仮にあなたが言い争いを制したとしましょう。そして敗北を認めた相手が、いさぎよく引き下がったとしましょう。ところが、権力争いはここで終わらないのです。争いに敗れた相手は、次の段階に突入します。」
「次の段階?」
「ええ。「復讐」の段階です。いったんは引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちで、なにかしらの復讐を画策し、報復行為にでます。」
「たとえば?」
「親から虐げられた子どもが非行に走る。不登校になる。リストカットなどの自傷行為に走る。フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子どもがこんなふうに育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。植物に水をあげなかったから、枯れてしまったというような。たしかにわかりやすい解釈です。しかし、アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復習)をかなえるために。」
「親を困らせるために、問題行動に出る?」
「そうです。たとえばリストカットをする子どもを見て「なんのためにそんなことをするんだ?」と不思議に思う人は多いでしょう。しかし、リストカットという行為によって、周囲の人、たとえば親、がどんな気持ちになるのか考えてみてください。そうすれば、おのずと行為の背後にある「目的」が見えてくるはずです。」
「…目的は、復讐なのですね。」
「ええ。そして対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。そうならないためにも、権力争いを挑まれたときには、ぜったいに乗ってはならないのです。」
非を認めることは「負け」じゃない
「じゃあ、面と向かって人格攻撃された場合はどうすればいいのですか?ひたすら我慢するのですか?」
「いえ、「我慢する」という発想は、あなたがいまだ権力争いにとらわれている証拠です。相手が戦いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。相手のアクションに対してリアクションを返さない。われわれにできるのは、それだけです。」
「でも、挑発に乗らないことなど、そう簡単にできますか?そもそも、どうやって怒りをコントロールしろとおっしゃるのですか?」
「怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね?そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり、道具なのですから。」
「ううむ、むずかしい。」
「まず理解していただきたいのは、怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能なのです。それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情も出なくなります。」
「でも、相手が明らかな誤解に基づく言いがかりをつけてきたり、侮辱的な言葉をぶつけてきたとしても、怒ってはいけないのですか?」
「まだご理解されていないようですね。怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、「ついカッとなって」などと言った言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュケーションしてしまう。」
「怒り以外の有用なコミュニケーション…」
「われわれには、言葉があります。言葉によってコミュニケーションをとることができます。言葉の力を、論理の力を信じるのです。」
「…たしかに、そこを信じなければこの対話も成立しません。」
「権力争いについてもうひとつ。いくら自分が正しいと思えば場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。」
「なぜです?」
「人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。」
「正しいと思っただけで?いやいや、なんて誇張ですか!」
「わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的には「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。」
「ううむ。」
「そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結すべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。」
「たしかに、その側面はあります。」
「負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。優越性の追求とは、他者との競争によっておこなうものではないのです。」
「勝ち負けにこだわっていると、正しい選択ができなくなるわけですね?」
「ええ。眼鏡が曇って目先の勝ち負けしか見えなくなり、道を間違えてしまう。われわれは競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。